オメデトウと申しあげるのがはばかるようなお正月でした。
後ればせながら被災された能登の皆様には心からお見舞い申ししあげます。
年末締め切りに間にあうように発注した猫の事務所通信は元旦に届き、発送作業をしながらテレビを見ていました。
そこへ飛びこんできたニュース!
能登半島と聞きますと、四十代の頃、友人と訪ねた旅を思い出しました。
引き出しの奥にその時の旅の日記がありました(1980年10月15日・記)
「珠洲まで鈍行列車。ガンガンを背負ったお婆さんや潮焼けしたお爺さんが乗り込んでくる。
景色のよい入江に沿って走る。トンネル多し。珠洲飯田で下車。喜兵衛という贅を尽くした豪商の旧家を見学。檜作り、漆塗りの家。
次のバスまで間があるので、海岸へいって貝殻や綺麗な石を拾ったりした」との記述。
このあと狼煙まで行き、美しい日没を眺めた。宿泊は狼煙館とある(ほとんど記憶がないが日記に記されていた)。
翌日は輪島へ行き、旅館に荷を預けて朝市を見に行った。輪島川畔の朝市を見に行き河畔にあった「保太郎」という店で焼き魚などを食べた、とある。
「漆器会館」で輪島塗の食器を見るが、その高価さに驚いている私(買えなかった)。
お婆さんたちがのんびりとしかし、いきいきと商売をしている様子。
この頃、まだカメラは買えなかったらしく、とにかくスケッチをし、急いだ汚い文字で
旅日記を書いている。支出もしっかり記録しているが、宿泊代は、四十年前も今も、それ程違わないのが意外である。
珠洲では、原発建設予定地になって、住民の反対運動が起こっていたが、その運動が功を奏して、原発は建たなかった。
本当に良かった!と皆、胸をなで下ろしていることだろう。
住民を2分したこの計画については詳しい記述ががあります。→
珠洲原発計画の反対運動で中心的な存在だった塚本さん。1975年に持ち上がった計画は、住民の反対運動と、それを切り崩す電力会社側との28年に及ぶ「闘争」の末、2003年12月に凍結された。塚本さんは「あと1年粘られたら、つぶれとったのは僕らの方やった」とかつての日々を振り返っておられます。
少し春めいて参りましたが、まだまだ寒い日も続きそうです。皆様おすこやかでありますよう。
例年にもまして春が待たれます。
あとりゑ・クレールはお陰様で今年26年目になりました。
今年も細々と、やってゆきます。応援してくださいませ。